「コロナ風邪の正しい怖がり方」
武漢で生まれた新型コロナウイルス感染症COVID-19は瞬く間に世界へ広がり、数ヶ月間で30万人以上の人々が死亡した。一方、オリンピックや習近平訪日の延期決定直前まで多数の中国人旅行者達と超三密状態であった日本では緊急事態宣言が出される以前から死者数が200人以下と桁違いに少ない事を世界は不思議がっていた。欧米諸国を戦慄させているコロナ感染症は“風邪の仲間”であり、将来的には“武漢風邪”として感染史に刻まれるであろう。日本人の多くは風邪の原因であるヒト型コロナウイルス(HCOV)に古くから感染しており、コロナ風邪に対してある程度抵抗力がある。しかし、“風邪は万病の源”なので抗癌剤治療者や免疫に問題のある高齢者では重症化して肺炎やサイトカインストームで重症化して死亡しうる。これは“新型コロナ”でも同様である。人類永遠の宿敵である感染症を根絶する事は困難であり、彼らとの条件付き平和共存が現実的な着地点である。土足で家に上がらない日本では多くの神社に手水舎があり、手洗いの習慣が深く根付いている。握手やハグの代わりに会釈する日本の礼儀作法は無意識的感染予防法である。日本ではインフルエンザで毎年約1万人が亡くなっているが、予防意識が広まった今年はその発症数や死者数が80%も低下した。新興感染症では予想外の事も起こりうるが、過度の自粛は生活習慣病、鬱、社会経済の崩壊などでウイルスの実害よりも遥かに重篤な人災を深刻化させうる。メディアが煽る恐怖心や過剰な同調圧に翻弄されず、コロナを正しく怖がりながら“手洗い、ウガイ、鼻洗浄、トイレの清掃消毒“しながら免疫弱者を集中ケアしながら健康な日常生活を維持して心の免疫力を強化する事が大切である。
【プロフィール:大阪市立大学 名誉教授・宮城大学 理事・副学長・大阪市立大学特任教授(脳科学)など】 ホームページ ⇒ https://www.inouemasayasu.net/
2020年4月29日水曜日
コロナの正しい怖がり方
2020年4月18日土曜日
【武漢風邪とコロナのインフォデミック】
パンデミックの最大のリスクはメディアが煽るインフォデミックとパニック反応である
パンデミックの最大のリスクはメディアが煽るインフォデミックとパニック反応である
新型コロナウイルスの感染症COVID-19は瞬く間に世界へ広がり、僅か3ヶ月で米国、イタリア、スペインなど200ヶ国以上で180万人の感染者と11万人の死者を出した。その後も感染は拡大し続けており、国境封鎖やロックダウンなどで世界中がパニック状態に陥っている。日本でも約7000名の感染者と132名の死亡者が確認され、4月7日には関東、関西、博多地域に限定した非常事態宣言が出され、9日後にはそれが全国に広げられた。COVID-19は“武漢風邪”と言われる風邪の仲間である。風邪の原因ウイルスとしてはライノウイルス、アデノウイルス、コロナウイルス(HCOV)などが古くより知られており、日本人の大半は幼児期に感染して抵抗力を獲得している。その為に感染しても多くは無症状で経過するが、“万病の源”と言われる風邪をこじらせると重症化して肺炎で死亡しうる。百年前にパンデミックとなったスペイン風邪は世界中を震撼させたが、その後もSARSやMARSなどの新型ウイルスによる特殊な風邪が50回近く発生している。“武漢風邪”の多くは無症状であるが、基礎疾患があったり免疫弱者の高齢者で重篤化すると間質性肺炎を起こす。
感染症は人類永遠の宿敵であり、それを根絶する事は不可能である。新興感染症は免疫のない人々に発症し、多くが感染して集団免疫が確立されると流行が下火になる。しかし、季節性インフルエンザでも毎年米国で数千万人が感染して約3万人が死亡し、日本でも約2千万人が感染して1万人が亡くなっている。武漢風邪の死亡率(0.1~10%)は国により大きく異なり、先進国では日本の死者数が著しく低い事が注目されている。これと関連してWHOのテドロス理事長が“検査・検査・検査”と連呼した内容を誤解したメディアや自称専門家達が“日本のPCR検査数が少ない事が問題であり、欧米同様に増やすべきである”と主張し、これに煽られた野党連合が“PCR検査拡張法案”を国会に提出した。しかし、抗体検査と異なり、感度や特異度が低いPCR検査は偽陽性や偽陰性が多いので多数の無症状者をスクリーニングするには不向きである。肺炎症状のある患者でウイルスの同定に利用するのが基本であり、海外で実施されている“ドライブスルー方式”などは政治的パフォーマンスの要素が強い。事実、偽陽性率が高い事から中国でもPCR検査は診断基準から除外されてしまった。ウイルス性肺炎はCT画像でスリガラス様の所見を呈するので容易に診断可能である。この装置は高額であるが、世界の30%もが日本国内にあり多くの病院で利用できる。CT画像で間質性肺炎が確認された患者を中心にPCR検査をすれば十分である。又、ウイルスが陽性である事が分かっても特効薬が無い現状では基本的治療方針は変わらない。
百年に一度のパンデミックに対応可能な医療インフラを常備しておく事は不可能であり、非常時には手持の武器で臨機応変に対応する事が基本である。パンデミックでは死亡者を減らすことが最重要課題であり、医療の基本に立ち返って行動することが大切である。集中治療室(ICU)が少ない事が医療崩壊の原因になると危惧されているが、日本には高度治療室(HCU)、冠疾患治療室(CCU)、脳卒中集中治療室(SCU)など、ICUに匹敵する優れたインフラもある。これらは武漢風邪の重症患者にも利用可能であり、医療崩壊を阻止する有力な武器となりうる。緊急時にこそ柔軟で俯瞰的な思考力が必要である。
日本では緩い自主規制であるにもかかわらず緊急事態宣言以前から人口当たりの死者数が極めて少ない事が不思議がられている。土足で家に上がらない日本では、何処の神社にも手水舎があり、手洗いの習慣が根付いている。握手の代わりに会釈してハグやキスの習慣も少ない日本は感染リスクの低い国なのである。同じく緩い規制で日常生活を続けているスエーデンの人口は日本の10%以下であるが、死者は110人で死亡率は10倍も高い。しかし、国境閉鎖やロックダウンを行った隣国ノルウエーやデンマークと対照的に、スエーデンでは適度な社会的距離を維持する注意喚起のみでパブやレストランは営業しており、幼稚園や小学校も通常通りで公園には子供達の遊ぶ声が響いている。このスエーデン方式は長年に渡りノーベル賞を厳選してきた科学者の洞察力や成熟した民度に支えられている。日本とスエーデンの社会環境は大きく異なるが、緩やかな対応では類似している両国のコロナ収束後の結果はインフォデミックによる人災を最小化する為の羅針盤となるかも知れない。感染予防の基本は“手洗い”と“集近閉の回避”であり、今年は手洗いが徹底された為にインフルエンザの発症数や死者数が激減した。新興感染症では想定外の惨事も起こりうるが、過度の自粛が長期化すると鬱や生活習慣病を深刻化させかねない。メディアが煽るインフォデミックや過剰な同調圧を排して適度な社会的距離を保ちながら俯瞰的思考力と心の免疫力を強化したいものである。
2020年3月22日日曜日
【スペインの貴夫人とコロナのインフォデミック】
パンデミックの最大のリスクはメディアによる“インフォデミック”が恐怖心とヒステリー反応を暴走させる事である。
2019年暮に新型コロナウイルスCOVID-19が武漢を襲い、瞬く間に世界中へ拡散した。2020年3月中旬にはイタリア、イラン、韓国などを含む150ヶ国以上で約21万人の感染者と1万人以上の死者が確認された。日本でもクルーズ船を除く814人の感染が確認され、高齢者を中心に24名が亡くなった。その後も感染は拡大し続けており、多くの国々が非常事態宣言や国境封鎖などで大混乱している。現時点ではCOVID-19の見かけの死亡率(1~3%)はインフルエンザ(0.01%)より遥かに高いと思われているが、PCR検査をしてない“無症状感染者”も多いので実際の致死率はもっと低いと考られる。ヒト型コロナウイルスでは古くから4種類(HCOV)が知られており、大半の人は幼児期に感染して抵抗力を獲得している為に多くは無症状で経過するが、運悪く発症すると“風邪”に罹った事になる。"風邪は万病の源"であり、COVID-19でも特に高齢者の肺炎が高リスクとなっている。2002年広東省で発生して約8000人の罹患者中800人が死亡した重症急性呼吸器症候群(SARS 死亡率10%)及び2012年に中東や韓国などで約2500人が感染して860人が死亡した中東呼吸器症候群(MERS 死亡率40%)を加えると、COVID-19 (2種類)は7番目のコロナウイルスである。
人類の歴史は感染症との戦いであり、病原体は永遠の宿敵である。100年前に猛威を振るった“スペイン風邪”ではウイルスが米国カンザス州で兵士に感染し、シカゴからボストンを経由して第1次大戦中のヨーロッパへ運ばれて瞬く間に世界へ広がった。当時の世界人口は約15億人であったが、約5億人が感染して1億人以上が死亡した。この情報が戦時報道管制の無かった中立国スペインから発信された為に、米国生まれでありながら“スペインの貴婦人”と呼ばれた。この貴婦人は軍艦に乗って遥か極東の島国にも訪れ、横須賀港から日本に上陸して全土へ広がっていった。当時の日本人口は約5.500万人であったが、短期間に約41万人もの国民が犠牲となった。この大戦では約1700万人が戦死したが、貴婦人の犠牲者はそれを遥かに上回っていた。この貴夫人により徴兵可能な男子が激減して大戦の終結が早まったとも言われている。”感染症は軍隊に付いて来る”と云われる所以である。
パンデミックや大災害時には不確かな情報や数値が独り歩きして過剰なヒステリー反応を誘発し易い。COVID-19もコロナの仲間である事からメディアに煽られた恐怖心が世界中に拡散され、マスク、消毒用アルコール、トイレットペーパーなどが店頭から消え、病院の必需品まで不足する事態に陥り、入国制限、外出禁止、経済活動の自粛などで世界恐慌的な二次被害を深刻化させている。不特定多数の人々が世界中を駆け巡るグローバル社会では病原体も一緒に旅をしているので空港や国境で彼らを封じ込める事は実質的に不可能である。武漢の貴婦人が短期間で五大陸へ拡散したのもその為である。新興病原体は抗体の無い人々に感染し、突然変異で変化したり集団免疫力が確立されると流行が下火になる。毎年晩秋に目覚めるインフルエンザも2月頃にピークを迎えて桜の季節と共に収束していく。人類と病原体の痛み分けは生物進化の不可避的現象なのである。季節性インフルエンザでは毎年米国で数千万人が罹患して約3万人が死亡し、日本でも約2千万人が感染して3000人以上が亡くなっている。今回のコロナ騒動では手洗いや嗽などの習慣が広まり、昨年と比べて インフルエンザの発症数が 約600万人も減少した。“手洗、嗽、過密状態回避”が貴婦人への有効で正しいオモテナシなのである。今回は唐突な休校措置が強行されたり大阪〜兵庫間の往来自粛などで混乱が深められているが、インフルエンザでは数千万人が感染して20%以上の生徒が発症した場合に1週間程休校すると有効である事も判明している。 新興感染症では想定外の惨事も起こりうるが、近年の感染症史は“人類がそのリスクを確実に軽減してきた事”や”病原体自体よりもインフォデミックによる人災が遥かに被害を大きくしてきた事“を教えてくれる。深刻化する世界的インフォデミックに翻弄される事なく「感染症を正しく怖がり冷静に対応する事」が大切である。日本では疾病管理予防センターの設立、デジタル化による遠隔教育、テレワーク、働き方改革、病的過密通勤地獄の解消など、日々の経済活動と共存しうる新時代の感染症対策として有効な課題が山積みである。“桜を観る会”も些細な国難ではあるが、今春こそ満開の桜を愛でながら心の免疫力を強化したいものである。
2019年11月6日水曜日
癌死大国日本の医療と処方箋
「癌死大国日本の医療と処方箋」
ヒトは約37兆個の細胞を有し、その遺伝子は加齢と共に障害が蓄積されるので高齢になると癌を発症しやすくなる。今日では日本の高齢男性の約半数、高齢女性の1/3が癌に罹り、癌が死因の第1位となっている。発癌には癌遺伝子と癌抑制遺伝子が重要であるが、これらは細胞分裂でアクセルとブレーキの役割を担う遺伝子群である。その遺伝子に突然変異が蓄積してくると細胞の分裂を制御できなくなり癌化する。放射線、タバコ、アスベスト、ウイルス、細菌、及びストレスなど、DNAを障害する因子は日常の環境内に溢れている。
体重が6トンもあるゾウはヒトの100倍もの細胞を持ち、ヒトと同様に70年以上生きる。しかし、彼らは殆ど癌に罹ることなく、動物園でも癌で死亡するは5%未満である。細胞の分裂回数や生死は癌抑制遺伝子P53、個体の大きさ、寿命などと関係している。この遺伝子はヒトでは2コピーしかないが、ゾウでは40コピーもある。これが1コピーのリ・フラウメニ症候群の患者では90%が癌に罹患する。この患者と健康人およびゾウのP53遺伝子を比較した結果、三者の放射線照射感受性は同じであるが、ゾウのP53は損傷した細胞を修復するよりも自殺させて排除する傾向が健康人より2倍以上、リ・フラウメニ症候群患者より5倍も強いことが解った。ゾウにも様々なストレスはあるが、喫煙や過剰摂取もしない彼らは癌予防と同時にDNA損傷細胞を排除する能力も優れており、これが癌で死なない主な理由である。
日本人では癌が脳卒中を抜いて死因の1位となり、高齢者の2人に1人が癌に罹り、3人に1人が癌で死ぬ時代となった。2014年には約75万人が癌と診断され、2016年には37万人以上が癌で死亡している。癌で死ぬことが当たり前になった時代の高齢者は癌を不必要に恐れず、彼らと共存しながら人生の幕を引くことも大切である。癌は遺伝子が傷害されて発症する老化現象であり、典型的な生活習慣病である。長く生きるほど遺伝子の傷害が蓄積されるので、高齢になるほど癌に罹りやすくなるのは当然である。事実、50歳以上の日本人では年齢と供に癌患者数が著明に増加している。
多くの場合、胃癌や大腸癌では治療後に5年経過すると再発して死亡する率が低くなる為、5年間再発しなければ治癒したと見なされる。しかし、治療後5年を過ぎて再発するか否かは癌の種類によって大きく異なる。例えば、乳癌では5年経過後も再発して死亡する例が多く、何時までも再発しうる癌である。癌患者の生存率には「実測生存率」と「相対生存率」があり、前者は癌以外の死因も含むために治療法の評価には相対生存率が用いられている。癌の全部位および全臨床期の10年相対生存率は癌の種類により大きく異なり、胃癌では69%、大腸癌では70%、乳癌では83%、肺癌では33%、肝癌では15%である。
癌で死亡する患者数は世界的にも増えているが、その多くは発展途上国である。欧米先進国では癌は毎年約5%程度減少しており、先進国中で癌患者が増え続けているのは日本だけである。他の先進国と比較して日本での高齢化速度が著しい事が癌死亡率増加の主因と考えられている。しかし、1位の日本と2位以下の欧米先進国での平均寿命の差は僅かなものであり、日本のみで癌患者が増加している主因は他にあると思われる。
日本の国民皆保険制度は世界でも類を見ず、米国の医療制度などと比較しても如何に優れた制度であるかを実感させられる。一方、日本の医師は病気の診断や治療には関心が深くて熱心であるが、多くの医療現場には構造的な問題がある。手厚くて安い医療費が受診に対する患者の心理的ハードルを著しく低くし、特に症状も無いのに不安感から医療機関を訪れる患者も少なくない。その為、CT, MRI, PETなどの高額画像診断機器による癌検診も日常的になっている。ちなみに、日本の人口は世界の僅か1.8%であるが、CTなどの最先端画像診断機器の保有率は日本がダントツ1位であり、世界の約30%もの高額診断機器が集中している。これは極めて異常な現象であり、高額の診断機器を頻回に使わなければ病院は経営が成り立たずに赤字倒産してしまう。この様に異常な医療経済的事情に対して“癌の早期発見早期治療キャンペーン”が追い風となり、多くの高齢者に癌検診を受けさせている。以前は腫瘍が5cm以上の大きさにならなければ発見できなかったが、高精度の画像診断装置により極めて小さな段階で早期の癌を容易に発見できる様になった。
これに伴い癌の治療法も大きく進歩し、以前は大腸癌の生存期間は診断後約半年であったが、最近では3~5年となっている。又、3~4カ月と言われていた胃癌も1~2年に、予後が悪い膵臓癌でも1~1年半となってきた。しかし、抗癌剤や手術による予後改善に関しては懐疑的な医者や研究者も少なくない。事実、前立腺癌や乳癌をはじめ、多くの癌では検出率が著明に増加しているにもかかわらず、年次死亡率は殆ど改善されていない。この原因には癌細胞の増殖特性や診断技術の進歩が大きく関係している。癌細胞が生じても臨床的に問題になるサイズにまで成長するにはかなり時間が必要である。このため癌の発見時期が早くなる事により、見かけの生存期間が延長された様に誤解される“リードタイムバイアス”が問題となっている。
癌検診による早期発見が患者の死亡率を減少させてくれれば問題は無いが、現実には患者の死亡率は増加する一方である。腫瘍の中には真性の癌以外に病理検査でも判別しにくい偽陽性や良性の腫瘍(がんもどき)も多い。前者の場合はやがて臨床癌となり、多くの場合は患者を死亡させる。しかし、後者の場合は予後は良く、多くは癌以外の病気で死亡することから天寿癌と呼ばれている。事実、癌以外の原因で死亡した高齢者を病理解剖してみると、前立腺などに癌が見つかることが少なくない。古希を越えた年齢では平均数個の前立腺癌や大腸癌などを持っているのが普通である。健康診断などで精密検査を受けると何処かに腫瘍が見つかり、それが悪性と診断されて過剰治療された場合は術後の合併症や抗癌剤の副作用などでQOLを低下させ、死亡するリスクも高くなりうる。
日本の医学会には“癌は先ず手術で治すべきである”という先入観がきわめて強い。今でも癌治療では放射線療法は補助的手段と見なされ、基本的には術前処置や手術不能な症例に適用される事が多い。この為、放射線療法と手術が同じ治療成績の場合でも、後遺症が多い後者による治療が優先されている。一方、欧米先進国では外科医、放射線科医、化学療法専門医などが連携し、個々の患者に最適と思われる治療法を協議して選択するのが基本となっている。事実、日本での放射線療法の割合は約25%であるが、米国では約60%と圧倒的に多い。癌組織周位に浸潤した癌細胞は手術でも取り残される可能性が高いが、放射線療法では癌周辺部も照射されるので取りこぼしは少ない。大手術では重要臓器への侵襲や患者の身体的負担が大きく、合併症で死亡するリスクも高くなる。手術信仰が強く根付いている日本では医師も患者も“手術ができてよかった”と思いがちであるが、必ずしもそれが患者にとって良い結果になっているとは限らない。
この問題に真向から挑戦したのが「患者よ、ガンと戦うな」の著者・近藤誠氏である。長年、ガンを研究してきた経験からも近藤氏の主張は納得出来る点が多いが、大半の医療現場では完全に異端児扱いされている。近藤氏の主張が医学会に浸透しにくい理由の一つに治療担当医の実名を挙げて厳しく批判している点が大きいと思われる。“恥の文化”を基盤とする日本医学会では医者が相互の治療法を批判的に議論する事を無意識的に避ける習慣が身についている。 一方、多くの臨床医は専門医の学会で「日本のスタンダード治療法」を真面目に勉強しており、これを真面目に施行している医師は近藤氏の批判に対して感情的な防衛反応を示す事が少なくない。しかし、この日本的専門医制のスタンダード治療法に大きな落とし穴があると思われる。その実例が日本と欧米での癌放射線療法の選択率の差に現れている。例えば、現在の様に高度な医療技術がなかった約百年前の胃癌患者は、その時代に可能だった対処療法を受けるのみで放置されていた。これに対して現代では大半の癌患者が様々な方法で治療されている。しかし、「百年前の放置された末期癌患者の方が現在の治療患者群よりも長期間生存していた」ことを示す驚くべき論文が一流の国際誌に掲載されている。しかし、忙しい日本の医療現場では情報を俯瞰的に網羅することが困難であり、この様な情報は“公然の秘密”と無視されている。現代の治療患者の生存期間が昔の放置群よりも短い理由の一つに“がんもどき患者”に対する過剰治療が考えられる。近藤氏はこれらの事実を根拠に「癌放置療法」と云う“古くて新しい対処療法”を提唱している。
正常細胞と癌細胞の生存原理は基本的に同じであり、猛毒の抗癌剤の殺細胞作用は基本的に癌細胞と正常細胞を区別しない。抗癌剤にはDNAを標的とする薬が多いが、その主要なターゲットは核DNAよりもミトコンドリアDNAである。消化管、腎臓、心臓、神経系などの細胞は酸素やミトコンドリアが不可欠であるが、癌細胞はこれらが無くても生きていける。この為に大半の抗癌剤は癌細胞よりも正常細胞を強く障害する。これが抗癌剤の副作用の本体であり、良く効く抗癌剤は副作用も強いのである。副作用が少ない事をうたい文句にしている抗癌剤の多くは殺癌作用も弱い。この為、抗癌剤治療を受けている患者のQOLは癌による組織障害と副作用のバランスにより決定される。この様な副作用を克服する目的で“分子標的薬”と呼ばれる抗癌剤が開発されつつある。その中でも価格が日本の保険医療制度を崩壊させ兼ねないとのことで問題視されている免疫チェックポイント阻害薬のオプチーボでは“副作用が少ない事”が強調されている。しかし、保険適用となる肺癌患者での有効性は10名中1~2名であり、高額な割にはその延命効果が期待されているよりも遥かに短い。しかも、本薬の日本での価格は米国の2倍、英国の5倍もになっているが、欧米ではコストに見合う効果があるか否かの観点から保険適応は大きく限られている。今後、日本でも本薬の使用例が増えるにつれて真の実力が明らかにされるであろう。
学生時代に私の恩師が“過去50年の癌治療史は敗北の歴史である”と述べられた。それから半世紀が経過した現在、私は“過去100年の癌治療史は敗北の歴史だった”との想いを強くしている。因みに、国立大学某医学部で癌診療に携わっている371名の現役医師に対して“白血病などの特別なガン以外で自分が固形癌に罹患した場合、現在の抗癌剤を使いしますか?”とのアンケート調査が行なわれたが、これに対して370名が“希望する患者には使うが、自分に対しては使いたくない”と答えている。その主な理由は、スタンダード治療を提供されなかった患者が司法に訴えれば医療側が敗訴するが、医師が自己責任で行うのは問題にならないからである。大半の医師は抗癌剤の毒性の本質的問題を経験的に知っているが、他に治療法がない為に制度上使わざるを得ないのである
ヒトは自分に不都合なモノを異物などと見なしたい生き物でる。癌細胞はその代表的な存在であり、それ故に異物を排除する免疫力に縋る気持ちが強くなるのは人情である。しかし、正常細胞ろ加齢に伴い生じる癌細胞の構造や生存機能は圧倒的に類似しておりり、両者の差異は誤差の範囲に過ぎない。歳を取ると老化した顔にシワが増えて体型も変化するが、それらは紛れもなく己の身体である様に、癌細胞も老いた自己の一部である。この点で免疫力に期待する分子標的治療法にも根本的限界があると思われる。正常細胞も非特異的に障害する猛毒物を“抗癌剤”と命名したこと自体が癌化学療法の自爆的アキレス腱となっている。
今後、患者のQOLを中心に癌治療を科学的に考えることにより大きなパラダイムシフトが起こると思われる。自己の一部でもある癌細胞を選択的に排除することは老化を阻止する事と同様に困難である。癌癌治療の夜明けは未だ遥か彼方であり、癌細胞を自己と受け止めて旅立てる死生観を育成する事が大切と思われる。
ピロリ菌と21世紀病の逆襲
『医者要らず健康長寿処方箋』
「ピロリ菌と21世紀病の逆襲」
体内にある限り何とも思わない唾や便は排泄された途端に汚いと嫌われるモノの代表である。この嫌悪感は太古より人類が様々な病原体に翻弄されてきた歴史に起因する。口から侵入して来る“バイ菌”の大半は強酸性の胃液で殺菌される為、胃には細菌が住めないと長い間信じられてきた。しかし、1982年にオーストラリアのウオーレンとマーシャルがプロペラ状の鞭毛を持つヘリコバクターピロリを胃液から分離培養する事に成功した。胃潰瘍や胃癌の患者に多いピロリ菌を病因菌と考えた彼らは、これを飲む事により胃炎が起る事や抗生剤で胃潰瘍が治る事などを世界に先駆けて報告した。この研究に対して2005年にノーべ賞が授与され、“ピロリ菌は排除すべき病原体”との考えが医師達の間に広がった。これを追い風に日本でも除菌治療が保健診療として認められた。しかし、これは“ピロリ菌がコッホの三原則を満たす病原菌である事”を証明したものではない。
10万年以上も人類と共に旅をしてきたピロリ菌は多様であり、その中でCagA蛋白陽性の東アジア人型では胃炎や胃癌の誘因となりうるが、欧米人型ではそのリスクが半分以下である。ピロリ菌の大半は幼児期に感染し、日本では人口の約半数(~6000万人)、50歳以上では70%が保菌者である。これだけ多くの保菌者がいながら、胃癌は70代以後の発症が多く、その率も1%以下と低い。胃癌の誘因となる胃粘膜萎縮は子共では起らないことから、欧米では“中学生を含む小児にはピロリ菌の除菌を行うべきでない”と考えられている。日本小児栄養消化器肝臓学会も“胃癌予防の目的で無症状の子供に検査や除菌を行うべきではない”と警告している。一方、日本ヘリコバクター学会は“全高校生を検査して早期に除菌する事が望ましい”と提言し、ある地域では高校生を対象に検査や除菌が進められている。
一方、ピロリ菌はウレアーゼでアンモニアを産生して胃酸を中和する機能を有し、保菌者では逆流性食道炎、食道癌、肺癌、及び脳卒中などが抑制される事が知られている。更に、保菌者では喘息などのアレルギー性疾患が40%も低く、特に子供では花粉症やアレルギー鼻炎が抑制される。病理学では“身体で常時起っている軽度の炎症は組織修復や新陳代謝に必要な防御反応である”との概念があり、胃のピロリ菌も樹状細胞や制御性T細胞を介して免疫系のバランスを調節している可能性が示唆されている。事実、ピロリ菌を投与したマウスではアレルギー反応が抑制される。これらの事実を考慮するとピロリ菌の功罪を一元的に考える事は危険である。若年者ではピロリ菌がアレルギー性疾患を抑制して福音となり、胃に異常がなければ腸内細菌のバランスを崩してまで除菌する必要は無い。成人後は胃潰瘍や萎縮性胃炎が胃癌のリスクを高めるので、症状のある患者のみを除菌するのがバランスの良い対応と考えられる。
新生児の胃は未発達で胃酸が無い為、出産時に母の膣や腸内の多様な共生細菌が口から入り生着する事が出来る。乳幼児期に多様な環境微生物に曝される事により病原体に対する細胞性免疫力が強化され、逆に暴露経験が少なかったり抗生剤で治療されるとアレルギー反応の液性免疫力が強くなる。この為、胃のピロリ菌を含め、口内には約12000種、大腸には34000種以上の細菌が共生する様になり、彼らのバランスにより様々な生命現象が制御されている。日本は20世紀後半に極めて清潔な先進国となったが、これと並行してアトピー性皮膚炎、花粉症、食物アレルギー、肥満などの“21世紀病”が激増してきた。一方、多様な細菌と接する農家やペットがいる家庭ではアレルギー疾患が少なく、数百年前の自給自足生活を続けている米国のアーミッシュではアレルギー疾患は殆ど見られない。人類と時空を共有してきた腸内細菌は人体を構成する“重要な代謝臓器”であり、彼らとの平和共存が健康にも不可欠なのである。
感染防御や共生細菌の“貯菌箱“として重要な扁桃腺や虫垂は扁桃炎や盲腸炎を起こすことから“無用の長物”と見なされていた。半世紀程前は虫垂炎の予防目的で新米医師の教育を兼ねて胃の手術の際に虫垂まで切除していた。無知とは怖いものである。自然界に無駄は無く、悠久の時空を旅してきた存在には相応の意味がある。抗生剤は大戦後の医療に大きく貢献してきたが、この“切れ過ぎる化学のメス”は健康に必要な共生細菌の多様性まで切除してきた。20世紀後半から抗菌薬を乱用してきた先進国では常在細菌の15~40%とその遺伝子が失われてきた。これが大戦後の短期間に免疫アレルギー病態をはじめとする“21世紀病”を引き寄せてきた主因と考えられる。抗生剤は病原菌のみならず共生細菌の多様性にも深刻な影響を与える事を俯瞰的に考える必要がある。
健康長寿は顎力握力歩行力
『医者要らず健康長寿処方箋』
「健康長寿は顎力握力歩行力」
鳥は恐竜の子孫であるが、彼らには先祖の様な歯がない。この為、鳥は食物を丸呑みして消化吸収しなければならない。恐竜は当初は卵を地中で孵化させていたが、これでは時間がかかるので卵が他の動物の餌食になる可能性が高かった。やがて暖かい地上で抱卵する様になり、孵化期間が短縮して捕食されるリスクが軽減したが、むき出しで無防備な巣では卵を奪われる危険性も高かった。恐竜の胚の化石の成長線を分析した結果、歯の形成には孵化期間の約60%を要し、卵が孵化するまでに数ケ月もかかっていた事が判明した。ジュラ紀を支配した恐竜と言えども、留守中に卵を他の獣などに狙われるリスクは大きかった。この為に孵化期間を更に短縮する戦略が生存に有利に作用した。
鳥は軽い羽毛を持った事により体表面から熱を逃さずに体温を40~42度に維持でき、この高い体温で抱卵期間を数日~数週間に短縮する事に成功した。しかも、長期間かかる硬くて重たい歯の形成を放棄する事により孵化期間を更に短縮させ、体重の軽量化と高温のエネルギー代謝で空を飛ぶ事を可能にした。これにより高い樹上に巣を作る事ができ、卵が捕食されるリスクが激減した。これらの要因が同じ卵生でありながら恐竜と鳥類の繁殖戦略に大きな差をつけ、鳥類の繁栄を助けてきた。しかし、そのトレードオフとして鳥は噛まずに丸呑みして消化吸収できる食物しか食べられなくなった。木の実や魚を丸呑みするのはその様な歴史によるのである。
これに較べて胚が体内で守られながら母親と一緒に移動しながら成長できる哺乳類は捕食者からのリスクを最小化する事に成功した。哺乳類は可動型保育器の子宮内で長い時間をかけて生存に必要な身体をユックリと構築することが可能になった。その中でも脳を巨大化することに成功した人類は、更に巧妙な生存戦略を展開できる様に進化してきた。形成期間が長い歯を持たずに生まれて柔らかい乳房から栄養豊富なミルクをもらいながら、長い離乳期間に腸内細菌叢を整えて免疫的軍事訓練を行い、多様な異種生物を食べられる様に進化した。離乳と共に歯が生えてくると硬い食物を噛み砕く事が可能となり、顎力が脳を鍛えていった。これに調理と云う武器が加わって広範な食材を食べる事が可能になった。更に、手を器用に動かす能力を進化させながら、握力と顎力を制御する脳の領域が大きく広がってきた。
最近、英国で約50万人の住民を対象に約7年間に渡り握力の強さと心血管系疾患、呼吸器系疾患、及び大腸、肺、乳房、前立腺などの癌発生率や全死亡率との関係が調査された。その結果、握力の強さが心血管障害、呼吸器疾患、及び癌の発生率や全疾患による死亡率と逆相関することが判明した。男女ともに握力が5 kg低下するごとに死亡リスクが16~20%増加し、握力や筋力が低いほど不健康になり死亡率や罹患率が増加するのである。年齢、性別、糖尿病、BMI、収縮期血圧、喫煙などに握力の強度を加える事により、全死因死亡や心血管系疾患の発症に関する予測精度が有意に高くなる。年齢や性別に加え、握力も健康長寿の重要な要素なのである。
握力のみならず、顎力や歩行力も健康長寿に重要である事が明らかにされている。歯が丈夫でシッカリ噛める高齢者は健康であり、噛む力と健康寿命が相関するのである。80歳で20本の自分の歯を維持して食事できる事を目標にした日本の“80・20運動”は健康長寿の基本なのである。最近、誤嚥性肺炎などを恐れる老健施設では、“年寄りには柔らかい食事が優しい”との配慮からクタクタに煮込んだ野菜の煮付けなどが日常的に出されている。この小さな親切は考えようによっては大きなお世話でもある。ヒトには“廃用性萎縮”という現象があり、使わない身体や臓器の機能は速やかに劣化するので、無理のない範囲で使い続ける事が大切なのである。食事では歯応えのある食物をよく噛んで食べると急激な血糖値の上昇を抑制でき、顎力が鍛えられると同時に脳機能が維持されて認知症を予防する健康法になる。
同様の事は手足をはじめとする身体全てについて言える。自立している71歳の日本人男女419人で調査した結果、日常の歩行数が多い高齢者では全死因による死亡率が低いことも判明している。毎日の平均歩行数が4,500歩未満、8,000歩以上、及びその中間の高齢者グループで追跡調査した結果、約10年間に76人(18%)が死亡したが、歩行数の多いグループでは死亡リスクが有意に低かった。高齢少子化が爆進する日本では、シッカリと噛み、握り、歩き続ける事が自立度を高めて健康長寿を楽しむ秘訣であり、若い世代の負担にならずに人生をしなやかに駆け抜ける基本的礼儀なのである。
顔の進化と表情の生存戦略
『医者要らず健康長寿処方箋』
「顔の進化と表情の生存戦略」
ダイビングが趣味の私はボルネオやインド洋の珊瑚礁で色彩豊かな魚達と戯れながら別天地を楽しませてもらっている。熱帯魚の豊かな色彩を見ながら、彼らはどの様に世界を観ているのだろうかと思うことがよくある。イトマキエイなどの大型魚のみならず、クマノミなどの小魚の表情も千差万別であり、夫々が個性を主張している。縄張りを持つ魚達は隣近所の仲間と他所者を区別する事が出来る。魚類に限らず顔は縄張りや自己を主張する情報器官なのである。
動物の生存には餌獲り反応が最重要課題であり、獲物を見つけて効率良く動けることが必要である。地中で暮らすゴカイや ミミズなどは前後両方向に移動出来る事が有利であるが、水中や地上で餌を捕まえたり天敵から逃げるには特定の方向に素早く移動できる事が生死を分ける。この事が進化圧となり消化管の一方をめくれ返して口や唇を創り、これを口輪筋が取り囲むことにより餌を効率良く捕獲できる口が誕生した。更に、口の周辺に情報収集装置である眼や耳や鼻を集めることにより顔が誕生したが、全方向に動けるウニやヒトデでは顔は進化しなかった。顔の設計図は魚類が基本であり、餌を噛み切る歯は爪の様に皮膚が進化した組織である。食物を飲み込む為の舌は魚の第三のヒレであり、 顎で餌を噛み砕く咬筋や側頭筋は顎弓筋から、情報を伝える表情筋の口輪筋、眼輪筋、鼻根筋などは舌弓筋から進化してきたのである。
顔は捕食と情報収集の為の装置として進化してきたが、動く獲物を捕らえるには鋭敏な視覚がモノを言う。ヒトは周囲の風景がはっきり見えていると思っている。しかし、それは錯覚であり、実際には限られた範囲しか見えていない。本を読む時はページの一部が鮮明に見えているだけで、大部分はボヤけているので目を動かさなくては文章を読むことができない。特定の対象に意識を向けると眼が素早く動くが、その移動中に網膜に投影されたモノの大半は無視されている。ヒトは自分で行動を制御していると思っているが、その大半は無意識に支配されている。考え事をしながら歩いたり車を運転できるのも脳の無意識機能のお陰である。
ヒトでは光情報が網膜の神経細胞を介して後頭葉の1次視覚野に到達し、そこから更に三十ヶ所以上の視覚関連野に転送されている。これらの視覚領域は物体の形、色、方向、角度、動き、奥行などの要素を特異的に分別しながら世界を認識している。この領域は聴覚や嗅覚などの知覚系ともネットワークを形成し、共感覚の神経基盤を構築している。脳の神経系も最初は1個の受精卵から出発して高次の機能を獲得しているが、本来は全ての五感を区別せずに感知している。音を聴いたり数字を見ると色が視えたりする共感覚が存在するのはこの為である。
猿族の中でも白眼は人類だけにあり、相手を注目している事を伝えるメッセージとして機能している。新生児の眼は強度の近視であり、お母さんの顔は輪郭がボンヤリと見えるのみである。しかし、コントラストの強い白黒の眼を視たお母さんの視床下部では愛情ホルモンのオキシトシンやプロラクチンが産生されて授乳反応が誘起される。新生児の眼は母乳と愛情の誘導装置なのである。
眼球が成熟すると外界の微細な情報を認識できる様になる。ヒトではこの機能は表情を読む能力としても重要である。顔や眼の周囲の表情筋はヒトの感情を表現する無意識的言語である。眼や唇の周囲を取り囲む輪状筋や口輪筋は両臓器をリング状に覆って保護すると同時に、微妙な収縮弛緩反応により感情を表出している。“顔は笑っているが、目は笑っていない”などと言われる様に、顔面神経で制御されている表情筋の収縮反応の僅かな差異が心を反映しており、それを読み取る能力が人間関係の構築や生存に重要な役割を果たしてきた。
最近、脳に顔を識別する“顔パッチ”と呼ばれる領域が存在する事が明らかになった。これは光により生じる額と口や眼窩と鼻のコントラストなどを認識する神経領域であり、ここに“顔細胞”と呼ばれる神経細胞が局在している。顔パッチは左右の脳半球に合計12箇所あり、サルでは約205個の顔細胞が50個の座標(50次元)を用いて顔の角度や見え方による違いを調整しながら画像処理している。
古今東西、化粧では目と口を中心に創ろうが、これは相手の美意識やエロスを刺激する無意識的戦略である。喜怒哀楽を豊かに表現する眉毛を剃り落として表情筋の無い額に眉墨を入れると能面の小面になる。これは表情を隠す事により視覚関連領域で幽玄の広がりを想像させる強かな能楽の戦略である。最近の若者でもアイシャドウやエクステにより目の周囲を黒くしてコントラストを増強し、“眼力”を強化するのがコスメの主流となっている。これが最も強化されたのがイスラームの黒いブルカであり、眼の周りの僅かなスペースで男脳のエロスを刺激している。“秘すれば花”は花伝書が極めた奥義である様に、顔の表情やコスメは進化が創生した無意識的生存戦略なのである。
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