2019年11月6日水曜日

不浄の左手とキーボード

『医者要らず健康長寿処方箋』
「不浄の左手とキーボード」
   ヒトの約90%は右利きである。その理由は、手足を右利きにするるD遺伝子が胎児期の10週頃に発現して生後4歳頃までに左右差を構築するからである。左右の手足は反側の脳と密接に線維連絡しており、言語中枢のある左脳が右半身を、右脳が左半身を制御している。ハサミやナイフ、改札口のタッチパネル、自動販売機のコイン投入口など、生活環境の大半は右利き向けにデザインされている。多くの言語も横書きでは左から右へ書くのが生理的に楽であり、左利きには不便でハンディーとなる事が少なくない。この為、以前は脳が大きく発達する幼少期に左利きを右利きに矯正する事が多く、その副作用で吃ったり神経症や夜尿症などを発症したことも少なくなかった。現代では左利きも個性の一部と考えられて矯正されることは少なくなった。
   しかし、宗教が絡む異文化圏では左利きは未だに窮屈な思いをする事が多い。左利きのオバマ大統領も中東訪問時にファラフェルを左手で食べて現地の人々のヒンシュクを買った。イスラム教やヒンズー教では今でも“左手は不浄”とされており、右手で食事をするのが正しいマナーとされている。これは預言者言行録に「食べるときは右手で食べよ」と記されている事に由来する。イスラム教圏では窃盗などの罪を犯すと右手を切り落とされ、その様な罪人は不浄の左手で不名誉な人生を送らざるを得なかった。興味深いことに、キリスト教でも聖書に「左手に告げるなかれ」とか「悪魔は左手に宿り、病気は左手からやってくる」と書かれており、娼婦は“左手の女房”と蔑まれてきた。事実、キリスト教圏で描かれた悪魔は左利きであり、異端として忌み嫌われ、魔女狩りの対象にされてきた。仏教や神道でも右側が上位で左側は下位とされ、神事はすべて右手中心の作法で行われるが、八百万の神々が君臨する世界では左手を不浄と見なす事は無い。
   神話や宗教の戒律はその時代の村社会を維持するための集団管理法として神の名の下に創作されたモノが少なくない。何時の時代にもヒトには病原体が最大の脅威であり、戒律の中には感染予防対策として機能してきたものもある。イスラム教徒やヒンズー教徒はトイレで用を足すときには左手を使う習慣があり、衛生環境の悪かった時代には右手で食事する事により病原菌の感染を無意識的に抑制出来た可能性がある。
   衛生環境の良い現代でも感染症と手指の関係を考える上で興味深い研究がある。不特定多数が利用するインターネットカフェのキーボードには多くの細菌が付着しており、これが胃腸炎や呼吸器感染症などの原因となっていた。これは利用者がトイレ後に手を洗わずにキーボードを操作している事が多いからである。個人用のパソコンでもキーボードには無数の細菌が付着しており、特に使用頻度の高い「e」のキーには最も多くの細菌が付着していた。その細菌密度は便座より約400倍も高かった。ブラインドタッチで使用されていた個人専用のキーボードでは各キーに対応する指先に特徴的細菌群が付着しており、その遺伝子解析により指紋と同様に持ち主を特定できる。指先の指紋は分泌された汗や有機物を餌として繁殖した細菌群とその代謝産物のレプリカなのである。興味深い事に、キーボードに付着した細菌群は中央部分を境に左右に区分でき、まるで生物の分布境界線であるウオーレスラインの様な様相を呈している。ウォーレスラインとはバリ島のロンボク海峡からボルネオ島とスラウェシ島の海峡をほぼ南北に走る生物分布の境界線であり、これにより象や虎が生息する西側の“東洋区”とカンガルーやコアラなどが生息する東側の“オーストラリア区”に分離されている。キーボード上のウオーレスラインも左右の指先に共生している細菌の分布特性を反映しており、それらが右手と左手で大きく異なるのである。左右の手に共生している微生物群に著明な差が見られる事は、日常的に手が触れるモノが左右で異なる事を反映している。両方の手や指に付着している細菌の大半は平時には感染症を起こさない共生細菌である。しかし、トイレの衛生環境が劣悪だった時代のキリスト教圏、イスラム教圏、ヒンズー教圏では“不浄な左手”が頻繁に病原菌を媒介していた可能性が高い。
   不特定多数が触る紙幣、電車のつり革、トイレのドアノブなどには無数の微生物が付着しており、それが手指を介してキーボードやスマフォのタッチパネルに移動して増殖する。事実、スマホの小さな画面からトイレの洗浄レバーの数十倍も高密度の細菌が検出されている。その大半は無害な環境微生物であり、神経質に消毒する必要はない。しかし、時々迷惑な輩も乱入してくる可能性があるのでトイレ後や帰宅時には手洗いやウガイを習慣にし、飲み食いしながらスマホやキーボードに触るのは控えた方が良いであろう。

1 件のコメント:

  1. スマホを介した感染のくだりは、まさに今のコロナ感染の主犯経路かもしれませんね。
    ぜひ、その手に付いた菌やウィルスが実際に体内に入り込む、より詳細な経路や機序等
    が具体的に分かると、より精緻な感染対策になると思うのですが、ぜひまた別の機会に
    ご教授頂ければと願っております。

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